どっちつかずの散文ショー
やはり、サイトを更新するというのは難しい。というのを、今まさに現在進行系で実感している。以下、それに対する、冗長でとりとめのない、言い訳と自己弁護の羅列である。
ぼんやりとした日々を過ごしている。日常はドン・キホーテの店内のように、曖昧で雑然とした秩序の上に辛うじて成り立っているように思える。この鉛色ポエジーというサイトも、似たような構造を持つ。昨日があって今日があるように、文章は独立しているわけではなく、非常にぼんやりとした形で、たがいに影響を及ぼしあっている。それをふと疎ましく感じる瞬間がある。やはり、サイトの色からはみだしたことを書きたいときは、過去の文章が足枷になる。勿論、書こうと思えば書けるのだが、本棚に鯖寿司が置いてあるような場違いさは否めない。逆に、サイトという形をとるからこそ映える文章もある。100質なんかその最たるものである。あれは、ほかの文章がなければただのどうでもいい自己紹介である。文章を読んでその著者に対して興味を持つ(ことがある)からこそ、読まれるようなものである(と思う)。自分が書いた文章は、サイトの文章として相応しいものと、そうでないものとがある。最近は自信を持って前者と言えるものが少なくなってきた。そして、前者とも後者ともつかない雑文が増加傾向にある。多分、定期的な更新を疎かにしてしまったがために、サイトの文章足り得るものと、そうでないものとの線引きが曖昧になったのだろうと思う。
ネットは可能性と不可能性を同時に見せつけてくる
もう、ネットが限られた人間のものではなくなった。「ネットで有名」であるという事実が、実世界に影響を及ぼすような時代だ。アクセス数でお金を稼げる、というのがその最たる例であろう。そして、悲しいことに、ネットで有名な動画、ブログなどは面白いものが殆どではあるが、その中にも、もしかして、自分にもできるのではと思わせるような稚拙なものが含まれている。面白いから有名になるのだ、というのは一見正しそうに見えるが、事実ではない。面白くても無名なものはいくらでもある。なにもかも、有名だから、有名になるのだ。トートロジー的ではあるが、今のところそれが一番正鵠を射た表現のように僕は思える。
つまり、有力者のネットを見てみると、自分は何かできるのでは、と幻想を抱いてしまえるのだ。可能性の可視化である。不可能に覆われた現実世界に比べると、とってもきらびやかな世界である。しかし、それは大体の場合、まやかしでしかない。ネットにおいて、容易そうに見えることは大抵難しい。一番ハードルの低そうな、文章を書くことに至ってもご覧のありさまである。まざまざと自分の不可能性を見せつけられるのだ。
冷静に考えてみれば、ネットに於いて力を持つ者は、力を持たない者に対して、(見せかけだとしても)可能性を見せつけておいたほうが良い。ネットで有名になるのは簡単だと思わせておけば、googleは、アフィリエイターは、より儲かるのだ。ネットを可能性に満ちた空間だと思い込んで、もがいてみるのは、しがないサラリーマンがビジネス書を買うのと何も変わらない。ネットは決して聖域ではない。そう思いさえすれば、ネットはなかなか悪くない空間である。