鉛色ポエジー Annex

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ネットは可能性と不可能性を同時に見せつけてくる

 もう、ネットが限られた人間のものではなくなった。「ネットで有名」であるという事実が、実世界に影響を及ぼすような時代だ。アクセス数でお金を稼げる、というのがその最たる例であろう。そして、悲しいことに、ネットで有名な動画、ブログなどは面白いものが殆どではあるが、その中にも、もしかして、自分にもできるのではと思わせるような稚拙なものが含まれている。面白いから有名になるのだ、というのは一見正しそうに見えるが、事実ではない。面白くても無名なものはいくらでもある。なにもかも、有名だから、有名になるのだ。トートロジー的ではあるが、今のところそれが一番正鵠を射た表現のように僕は思える。

 つまり、有力者のネットを見てみると、自分は何かできるのでは、と幻想を抱いてしまえるのだ。可能性の可視化である。不可能に覆われた現実世界に比べると、とってもきらびやかな世界である。しかし、それは大体の場合、まやかしでしかない。ネットにおいて、容易そうに見えることは大抵難しい。一番ハードルの低そうな、文章を書くことに至ってもご覧のありさまである。まざまざと自分の不可能性を見せつけられるのだ。

 冷静に考えてみれば、ネットに於いて力を持つ者は、力を持たない者に対して、(見せかけだとしても)可能性を見せつけておいたほうが良い。ネットで有名になるのは簡単だと思わせておけば、googleは、アフィリエイターは、より儲かるのだ。ネットを可能性に満ちた空間だと思い込んで、もがいてみるのは、しがないサラリーマンがビジネス書を買うのと何も変わらない。ネットは決して聖域ではない。そう思いさえすれば、ネットはなかなか悪くない空間である。